時代に合わない伝統に縛られなくもいい

「お墓の問題」に悩む人が勿体なさすぎる理由

お盆に故郷へ帰省する方も多いのではないでしょうか

現代では、様々な事情で生まれ育った地域とは別の地域で暮らす人が増えています。しかし、先祖からのお墓は生まれ育った土地にあることが往々にあります。

そして、日本全国で高齢化が進んでいる現代、故郷で暮らす親や親族が亡くなった後「先祖代々のお墓をどうするのか?」という問題に直面するケースが増えています。

しかし、そのお墓は本当に先祖代々からなのでしょうか? 

それどころか私たちは一体いつからお墓参りをしているのでしょうか?

実は、私たちが行っている「骨壺を収めている石のお墓にお参りする」という伝統は、さかのぼって概ね100年程度のようです。

「先祖代々の墓」といっても、その「代々」はそんなに古くないのようです。

そもそも、庶民が「○○家」という名字を名乗るのは多くは明治以降です。

 

フェイクニュースで広まった「お布施」や「戒名」

インド生まれの仏教が中国、朝鮮半島を経由して日本に伝わってきたのは、6世紀中頃といわれています。

その後、江戸時代に入り幕府はキリシタンを禁止しました。

島原の乱(1637年)前後から、寺請制度・檀家制度が整えられていったそうです。

それは、各地域の寺が「この住民は我が寺の信者であり、キリシタンではない」と証明すること。証明してもらわなければ住民はキリシタンの疑いを持たれるわけで、生死にかかわることとなりました。なので、すべての人はどこかのお寺(檀那寺)の檀家にならざるをえない、という仕組みができあがったようです。

こうして寺は行政の末端として戸籍係の役割と、キリシタン監視の役割を兼ねました。

その代わりに、葬式・法要の独占権を得たという流れのようです。

元禄の頃(1700年頃)、『宗門檀那請合之掟(しゅうもんだんなうけあいのおきて)』という文書が現れました。

内容は、住民に対し「葬式、法要などを檀那寺で行いなさい」「寺の改築・新築費を負担しなさい」「お布施を払いなさい、戒名を付けなさい」「檀那寺を変えるな」……などと、やたらお寺側に有利なことが並んでいたようでする。

それもそのはずです、これは偽書なのであったようです。 今でいう“フェイクニュース”ですね。

しかも、いかにも徳川家康が決めたことのようにお寺に張り出され、寺子屋の習字手本にも使われたというから、これもまた今でいう印象操作や、洗脳教育みたいなものだったようです。

その効果で、寺は経営が安定し俗に「葬式仏教」とよばれるものは、ここに始まったとされます。

一般庶民がお寺のお坊さんと葬儀・法要を行い、家の仏壇にご先祖の位牌が並ぶ光景(位牌を使わない宗派もある)は、概ね300年くらいの歴史しかないようなのです。

ちなみに、元々の仏教では死後の戒名はなく、位牌のルーツは儒教も由来しているようです。

そもそも祖霊信仰・祖先崇拝が仏教にはなく、中国の儒教と、日本土着の原始神道的な民俗信仰とが融合したもののようです。

その結果、私たちは(仏につながったとされる)ご先祖様を拝む習慣ができたようです。

 

「お墓参り」の歴史は概ね200年しかない

では、お墓はいつからあるのか?

「養老律令」(757年)の喪葬令(そうそうりょう)で、庶民は墓を持ってはいけないとされたそうです。

なので、ずっと時代が下っても普通の人々は決められた地域に穴を掘って埋め、上に土饅頭を作るという土葬でした。

これがお墓だという目印として石を置いたり、木を植えたりはしていたそうですが、ご遺体が腐敗して土饅頭は陥没し、その存在はわからなっていく。

文字どおり「土に還る」ということです。

それではご先祖を拝もうにも、どこを拝めばいいのかわからないので埋めた場所とは別の便利な場所に、石塔を作って拝むようになったようです(民俗学では、これを「埋め墓」と「参り墓」の両墓制と呼んでいる)。

「参り墓」を拝んだところで、ただの石材なんですが、遠くにある「埋め墓」につながる入口だと都合よく考えていたようです。

しかし、石塔を建てられるのは一部の上流階級の家のみでした。一般庶民が墓を建てるようになるのは江戸時代以降のことで、「文化・文政・天保(19世紀初期)」の頃から一般庶民の墓が増え始めたそうです。

天保2年(1831年)には、『墓石制限令』というものが出てきました。これは「百姓・町人の戒名の院号・居士禁止」や「墓石の高さ四尺まで」などと決めたもので、それ以前にそういう墓が出て来たということでしょう。そして、この規則を守るなら庶民も墓を建てていいということだったようです。

つまり、庶民がお墓を建て、お墓参りをする風習は概ね200年くらいの歴史しかないということのようです。

明治になって、寺請制度がなくなり葬式仏教だけが残った。

そこへ、明治政府の「家制度」が始まりました。

すると「先祖代々の墓」が現れ、ここで「一緒の墓に入る」とか、「墓を継ぐ」とか「代々の墓を守る」という意識が世間に広がっていったようです。

さらに土地不足と公衆衛生の観点から火葬が推奨されたため、明治の思想家として有名な中江兆民は「人が死ねば墓地ばかりが増えて、宅地や耕地を侵食する。自分の場合は、火葬した骨と灰を海中に投棄してほしい」と書いている(兆民は無宗教の人だから、葬式も拒否。代わりに行われたのが日本初の「告別式」のようです。元々、宗教とは別のものとして始まったようです)。

全国の火葬率は明治半ばで30%、大正時代で40%程度で50%を越えたのは戦後の1950年代とのことです。

火葬施設が整えられることで1980年代に90%を越え、現在はほぼ100%。日本は世界一の火葬大国になりました。

 

移りゆく「伝統」に縛られなくてもいい

戦後、家制度はなくなり、現代では生まれた土地から離れて暮らす人々も増えました。「地元のお寺・お坊さん・お墓」と「人」との関係は、どんどん希薄になってしまい、檀家を前提にした寺の経営は苦しくなってしまいます。

現代では葬儀社が葬祭一式を取り仕切るようになり(葬儀社は、すでに明治時代、東京に誕生しているようです)、お寺のお坊さんは、セレモニーホールで葬儀社が仕切る葬儀の中で、重要な役割ではありますがその役割は大きく変わってしまいました。

いつの間にか社会的な儀式であったはずの「告別式」も宗教的儀式の中に取り込まれてしまい、人は必ず死ぬ。それは現代も昔も変わらない。

だから、葬儀や墓に関する「伝統」も大昔から変わらないかというと、実は大きく変わってしまっているようです。

現代では「先祖代々の墓」に「一緒に入る、入りたくない」と家族同士が争ったり、「継ぐ」とか「守る」で頭を悩ますことにも、あまり意味はないようにもなってきました。

信心・信仰というのは心の中のことなので目では見えない。

その結果さまざまな儀式を必要とする。

多くの人には意味のわからないお経とか、お焼香の回数とか、四十九日法要とか、一周忌、三回忌……など。

お墓の魂入れ、墓じまいの魂抜き……など。一般の人にとって「宗教は儀式に宿る」。

その儀式が時代に合わなくなればその時代に合った儀式に変化しています。

「伝統」とは、人が生きやすいために作った決め事の集積であり、時代に合わなくなった伝統に縛られて生きている人々が悩まされていたら「代々のご先祖様」はどう思うのでしょうか。

 

このページの内容は東洋経済ONLINEにて2018年8月25日に掲載された内容を基に抜粋してご紹介しております。

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